クリニクラウン特別派遣を受けて

東北大学病院 小児科医師 新妻秀剛

東北大学病院 小児科医師 新妻秀剛

東北大学病院には2009年から年1回、クリニクラウンに訪問して頂くようになり、2011年度の訪問の日程調整を始めていました。東日本大震災が起こったのは、そんな矢先でした。

その時、私は病室に居ました。1分を超えても揺れがおさまらず、これは普通の地震ではないと感じました。数分してようやく揺れが収まって飛び出すと、廊下の角では小学校低学年の子どもがうずくまってブルブル震え、立てなくなっていました。個室の患者も皆、不安そうに廊下に出てきました。すぐに、病棟の被害が大きく無い事がわかってホッとしましたが、患者たちは皆、薄暗く寒い病棟で一様に不安そうにしており、私たちは繰り返す余震の度に病室を巡回して様子を伺いました。ワンセグ放送から6m級の津波が迫っているという冗談のようなニュースが聞こえて、これは大変な事になったと感じました。しかし実際にはそれを遥かに上回る巨大津波が沿岸の多くの町を襲ったことになります。夕方になると沿岸の平野地区で何百人もの遺体が発見されたというニュース速報が流れました。まるで映画のようで、現実感が遠のいていきました。しかしこれは紛れもない、現実での出来事でした。

我々の病棟に入院中の患者では幸い、地震・津波の直接の被害により家や家族を喪った方はいませんでした。沿岸部の激甚被災地において、命や家を喪った多くの方たちの事を思うと、我々が受けた被害や不便というのは、本当に些細なものです。しかし小児がんという特殊な疾患を多く扱う病棟で、震災によってどのような影響があったか、記そうと思います。

ライフラインや交通物流網の遮断による直接の影響としては、暖房・食事の制限や薬品不足がありました。特に抗がん剤は抗生物質や補液等の基本薬品に比べて後回しになり、化学療法が予定されていた全ての小児がん患者で1~2週間の治療延期が生じ、ご家族のご心配はどんなに大きかったかと思います。直近に造血幹細胞移植が予定されていた一部の患者は、施設設備の問題で移植自体が不可能となり他県の病院に紹介しました。またガソリン不足もあり家族の面会や外泊のチャンスが減りました。暖房も付かない病室に防寒具を羽織って閉じこもり、患者も家族もストレスが最高潮に溜まっていました。

日本クリニクラウン協会からご連絡を頂いたのは震災後の早い時期でした。お見舞いのメールを頂き、私は震災後の現状をお伝えしました。すると、翌日すぐに『子供の成長をサポートするNPOとして出来る事を考え、被災地を中心とする小児医療施設へのクリニクラウン特別派遣を決定しました。』と、熱いお返事が!まだ新幹線も復旧しない4月中旬に、夜行バスで仙台に乗り込んで来たクリニクラウンに会った時には、涙が出そうになりました。

ほとんどの子供たちは、クリニクラウン初体験でした。ハーモニカを鳴らしながら行進するクリニクラウンを見て、引っ込み思案な東北の子供たちは、遠巻きにおそるおそる様子を伺っていました。2人ペアのクリニクラウン、彼らの軽快な掛け合いに目を奪われ、知らず知らず子供たちは距離を縮めます。そして自然に遊びの輪に巻き込まれ、目を輝かせます。その光景を見て嬉しくなる家族、スタッフ。子供たちは自分の部屋を出て廊下へ、隣の部屋へ、クリニクラウンを追っていき、笑顔の連鎖は病棟全体に広がりました。震災後の鬱々とした空気を、クリニクラウンはあっという間に吹き飛ばしてくれました。

半年~1年ほどの入院生活を送る小児がんの子供たち。クリニクラウンの訪問は、定期訪問という形で真価を発揮します。2011年4月に、初めてクリニクラウンに出会った子供たちも、毎月訪問を受ける度に、また来たの!?という反応をするようになりました。こうなると、病棟がクリニクラウンのワールドに染まるのもあっという間です。新しく入院してきた子供も、他の子が遊んでいるのを見て、自然に輪に加わります。時に我々医療スタッフも、そこに運悪く(!?)居合わせると遊びに巻き込まれ、そんな様子を見てまた、子供たちが喜びます。クリニクラウンが帰った後も、病棟にはほんわかした空気が残り、今日こんな事したんだよ、と子供たちが報告してくれたりします。震災後の多岐にわたる精神的・物理的ストレス満載の生活の中、病棟の全員がクリニクラウンに元気をもらいました。

多くの方々からの暖かい支援のおかげで、この特別派遣が実現しました。日本クリニクラウン協会ならびに、ご支援頂いた方々に心より感謝致します。この元気を沿岸部の町にも届けられたら、というのが私の願いでしたが、先日、岩手県立大船渡病院への訪問が実現したと聞き、本当に嬉しく思います。クリニクラウンがもたらす笑顔の輪が、ますます多くの病院の子供たちに広がるよう願ってやみません。